
雪をまとったアルプスの山々。青く澄んだ湖、深い谷、緑の牧草地。
その雄大な景色の中を、一本の線路が山肌に沿うように伸びています。そして、その線路をゆっくりと進んでいく列車。
窓の外に広がるのは、まるで絵画のような風景です。
けれど、景色を眺めていると、ふと不思議に思います。
どうして、こんな険しい山の中に鉄道をつくったのでしょう。
そこには、観光のためだけではない、山と人との長い物語があります。
アルプスを走る、世界遺産の鉄道
スイス南東部のアルプスには、世界遺産に登録された鉄道があります。
正式名称は、「レーティシュ鉄道アルブラ線・ベルニナ線と周辺の景観」。
2008年にユネスコの世界遺産に登録されました。
世界遺産になっているのは、単なる「鉄道の線路」だけではありません。
アルブラ線とベルニナ線、そしてそれらを取り巻く山々や谷、集落などを含めた景観全体が、一つの文化的景観として評価されています。
つまり、ここで見られるのは、
山の自然と、人がつくった鉄道が長い時間をかけて一つになった風景。
それが、この世界遺産の大きな魅力です。
なぜ、こんな山の中に鉄道をつくったのか
今でこそ、アルプスを列車で越えることは特別な旅のように感じられます。
けれど、鉄道がつくられた当時、この地域にとって鉄道は単なる観光施設ではありませんでした。
険しい山々に囲まれた地域では、人や物が行き来することそのものが大きな課題でした。
そこで、山を越え、谷と谷をつなぐ交通手段として鉄道がつくられていきます。
アルブラ線は1904年に開通。
山の中にトンネルを掘り、深い谷には橋を架け、急な斜面には線路を通しました。
アルブラ線は約67kmの区間に42のトンネルと覆道、144の橋や高架橋があります。
数字だけを見ても、当時の工事がどれほど大きなものだったのか想像できます。
そして、その鉄道によって、それまで交通の便が限られていたアルプスの集落がつながっていきました。
鉄道は、山の景色を見に行くためにつくられたのではなく、山の中で暮らす人々の生活を支える道でもあったのです。
なぜ、この鉄道は世界遺産になったのか
山の中に鉄道がある。
それだけなら、世界にはほかにもたくさんの鉄道があります。
レーティシュ鉄道が評価されたのは、鉄道そのものの技術だけではありません。
トンネルや橋、高架橋、駅などの鉄道施設と、アルプスの自然環境、そして周囲の集落や景観が、長い時間をかけて一つのまとまりをつくっていること。
そこには、自然を完全に押しのけるのではなく、険しい山の地形に合わせながら鉄道を通した人々の知恵を見ることができます。
ユネスコも、この鉄道について、技術的・建築的な特徴と周囲の環境が調和した景観として評価しています。
鉄道によって人が山を越え、山の中の地域同士がつながり、その結果として新しい暮らしや経済の流れも生まれました。
そう考えると、ここにあるのは「古い鉄道」ではなく、
人と山がどのように関わってきたのかを伝える風景
なのかもしれません。
山を越えるための、人の知恵
アルプスの鉄道を見ていると、列車そのものよりも、その線路がどのように山を越えているのかに目が向きます。
急な斜面をそのまま登るのではなく、線路を大きく迂回させたり、トンネルを掘ったり、橋を架けたり。
地形に逆らうのではなく、地形を読みながら道をつくっています。
その代表的なものの一つが、アルブラ線にあるランドヴァッサー橋です。
深い谷に架かる大きな石造りの高架橋で、列車が橋を渡り、そのまま山肌に開けられたトンネルへ入っていきます。
列車に乗っていると、ほんの一瞬の風景かもしれません。
でも、その一瞬の景色の裏側には、山の地形を読み、材料を運び、橋を築き、線路を通した人々の仕事があります。
景色を見るということは、ときに、その景色をつくった人々の時間まで想像することなのかもしれません。
アルプスを越えるベルニナ線
さらに南へ進むと、ベルニナ線があります。
ベルニナ線は、アルプスを越えてイタリア方面へ向かう鉄道路線。
アルブラ線とはまた違った、雄大な山岳風景の中を走ります。
ベルニナ線は約61km。
その区間には13のトンネル・覆道と52の橋や高架橋があります。
そして、この路線の大きな特徴が、高い標高まで登っていくことです。
列車は山を上り、氷河や雪をまとった峰々の近くを通り、やがてイタリア方面へと下っていきます。
車窓から見える景色も、標高が変わるにつれて少しずつ変化します。
湖、森、牧草地、岩肌、氷河。
一つの列車に乗りながら、山の中のさまざまな風景を通り過ぎていく。
それがベルニナ線の魅力の一つです。
ベルニナ・エクスプレスという旅
この世界遺産の鉄道路線を走る列車として、よく知られているのがベルニナ・エクスプレスです。
大きな窓からアルプスの景色を眺めながら進む、観光客にも人気の列車です。
ただし、ここで少し面白いのが、
世界遺産=ベルニナ・エクスプレスそのもの、ではない
ということ。
世界遺産に登録されているのは、アルブラ線・ベルニナ線と、それを取り巻く景観です。
ベルニナ・エクスプレスは、その世界遺産の路線を走る観光列車の一つ。
つまり、世界遺産の鉄道を「旅として体験する」ための方法の一つが、ベルニナ・エクスプレスなのです。
ちなみに、この路線では観光列車だけでなく、地域の人々が利用する通常の列車も走っています。
観光のためだけに残された鉄道ではなく、今も地域の交通を支える鉄道として使われている。
そこにも、この世界遺産のおもしろさがあります。
運行時刻やルート、列車の情報などは、レーティシュ鉄道(RhB)の公式サイトで確認できます。
100年以上前につくられた景色
この鉄道が開通してから、すでに100年以上が経っています。
その間、列車は何度も山を越え、人々を運び、物を運び、アルプスの町と町をつないできました。
そして今、私たちはその列車に乗って、同じ山々を眺めることができます。
そう考えると、車窓から見える景色は「自然そのもの」ではありません。
もちろん、山も湖も氷河も、人がつくったものではありません。
けれど、その景色を眺めるための場所まで鉄道でたどり着けること。
山の中を安全に移動できること。
そして、その風景の中に鉄道が存在していること。
それらすべてが、100年以上前から続く人と山との関わりの上に成り立っています。
変わっていくアルプスを、列車は走り続ける
美しいアルプスの景色は、ずっと同じ姿で残っていくとは限りません。
特に大きな変化を見せているのが、氷河です。
スイスでは近年、温暖化の影響によって氷河の融解が進んでいます。
氷河は、長い時間をかけて雪が積み重なり、圧縮されてできたもの。
そのため、氷河が小さくなっていくということは、単に「雪が少なくなった」という話ではありません。
何百年、何千年という時間の中でつくられてきたアルプスの風景そのものが、変化しているということです。
かつて氷河に覆われていた場所に、岩肌が現れる。
氷河の先端が少しずつ後退する。
そうした変化は、山を訪れる人の目にも見えるほどになっています。
100年以上前に、人々が山の地形に合わせて鉄道をつくりました。
そして今度は、気候の変化によって、その山の姿そのものが変わろうとしています。
列車が走る風景は同じように見えても、その奥では少しずつ時間が動いているのです。
いつか、この景色を列車の窓から
写真で見るアルプスも美しい。
映像で見るベルニナ線も、きっと素晴らしい。
それでも、列車の窓から実際に山を眺めたら、また違う景色に見えるのかもしれません。
トンネルを抜けた瞬間に広がる山。
谷に架かる橋。
遠くに見える氷河。
そして、その景色の中をゆっくり進んでいく列車。
ただ「絶景を見る」のではなく、
どうしてここに鉄道があるのだろう。
誰が、どんな思いでこの道をつくったのだろう。
そんなことを想像しながら眺めてみると、同じ景色でも少し違って見えてきそうです。
美しいものを眺めることから始まり、その景色の奥にある歴史や人の営みを知る。
それもまた、景色を楽しむ一つの方法なのだと思います。
六感から、もうひとつの景色へ
景色を眺めていると、目に映るものだけではなく、その場所の歴史や人の営みまで知りたくなることがあります。
美しい景色の奥には、そこに暮らしてきた人々の時間があります。
アルプスの山を越える鉄道も、そうした時間を今に伝えてくれるものの一つ。
次にどこかの景色を眺めるときには、少しだけその場所の物語にも目を向けてみてください。
景色から、物語へ。
そこからまた、新しい「癒し」が見つかるかもしれません。
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